昭和42年05月10日 朝の御理解
昨日、大原美術館の特に油絵のコレクションが、久留米の文化センタ―であっておりまして、早うから行かせて頂いた、日日新聞にも載っておりました様に、実に見事な力作ぞろいで御座いまして、私共なんにも分らない者が見ましても、何かこう力を感じます。もう見事でしたね、ちょうど高橋さんが見えられまして、是非一緒にお供したいというので、参りましたんですが。
あちらに着きましてから一番に思いました、もう文化センタ―の前が貸し切りバス、普通の自家用車で一杯でした、車が駐車する所がない位一杯で御座いました。矢張り大変な事だなと思いました、成程良いものを見るという事は、実に楽しい事です、本当に心が清まる様に御座います。ですが私思いましたのにね、本当にお互い信心をさして頂き、皆さんどう感じられるのでしょうか。
例えば昨日の朝の御理解じゃないですけれども、自分がおかげ受けた事を、人に実意丁寧に伝えて行くのが神えのお礼じゃと仰るが、果して自分がおかげ受けている事、おかげを受けているという実感というものがです、無いんじゃないだろうかと、昨日の朝申しました様に。例えば朝の御祈念に三十人の方がお参りしているとするなら、その三十名の人が十人の人に、その話を伝えさせて頂いたら、三百人の人に伝える事になるのだと 言う様な御理解でしたね。
本当に私自身が助かっておるこの状態と言う物をです、皆んなにも聞いて貰たい、見て貰いたいというて、私が宣伝して廻るという訳にもいかん、お道の、たてまえというのもありますから、真実の助かりを求め、真の救いを求めて、見えられる方達にそれをお取り次させて貰おうと。真実私の様な者が、この様に助かっておる、こうやって心を救われて行きよる、世の中にはそういう助かりと、そういう救いを。
もしそういう道があるならば、その道を求めて助かりたい、救われたいという人が、どの位多いか分からない、溺れるものはワラをも掴むと言う様な状態でです、それこそ本当に愚にもつかない物に縋ったり、願ったりして一生を終って行くという人が、どの位おるか分らない、こんなに間違いなく、確実に助かっていける道があるのに。それを皆んなが知っていないと云う事です。でも 文化センタ―で、そういう一つの美術品のコレクションをそこに一堂に集めてです。
成程それは倉敷の大原美術館まで、行かなければ見られないと言った様な物が、沢山来ておりますけれども、そういう物が来ておりますと致しましてもですね、本当に人間の救い助けられると云う事は、問題にならない程に違う。ここに帰って来れば助かるんだと、ですから本当に云うたら、あの位の車の事ぐらいではない、あの位の人間の事ではない。それこそ毎日ここがゴッタがえす位にです。
願いを求め、救いを求めて来る人達が、あらなければならんのに日に、200名見当でしょうか、月次祭でまあ四十名近く、午前中はどうやら賑おうております。けども午後は閑散としておると、言う様な状態。夜になると又お参りがありますけど、こんな事では、神様に対してあいすまんなあと思ったんです、それを一番に感じました、まあこんな事と言っちゃ失礼ですけれど。
もうああいう美術品を見ると云う事ぐらい、目を楽しませると言う位でもあれだけの人が集まるのに人間の心を洗い清めて下さる。真実自分がその気になれば助かられる救われる道がありながらです。そういう道があるのに皆がそれを知らないと言う事そこで私思うて見るんですね、昨夜の御理解にもありましたその事を中心にお話したんですけれども、昨日この部落の方で西田さんという方でご主人が参って来ておられました。
その方の奥様が交通事故で入院されていて、合楽の御信者さん方が四、五人でお見舞いに行きがけ教会によられましたから。今朝の御理解をね、一切の上に表さないけんよ、病人の方に兎に角、お道の信心の有難い事を、一口でも良いから伝えて来なさいよと話した事でした。それをこの方達が一生懸命話をされ。その事を奥からご主人が聞かれてですね、なにか知らんけれどですね。
昨日ばっかりは、何かやむにやまれんごとある思いで、実は初めてで御座いますけども、お参りさせて頂いたというて、昨夜参って来ておりました。それにあの人達がお参りして来ておりましたし、あゝ、お参りになっておられますか。今日はあの方達にお見舞いにきて頂いて、家内の話を聞いて何かしら。お参りしなければおられないという気持ちで、お参りさせて頂きましたら、今晩のお話頂きました。
そして今晩のお話をですね、一生懸命そこいらで話しておられる、下がってから、もう本当に今晩のあのお話は、私が一人で頂かんならんと思うて頂きましたと、話しておられました。皆さんどうでしょうか、朝の御理解を、ああ家の嫁子に聞かせたい、家の息子に聞かせねばと言った様な事じゃないでしょう、問題は自分自身を頂くのです。そしてその方は、非常に何々様やらお参りされてですね。
信仰的雰囲気を持っておられる方なんですね、そして例えて云ならば愚にもつかない迷い信心、そして迷い信心から脱却出来ずに、信仰とはこういうもんだと思い込んでおられる所にそれこそ新たに、初めて聞く話もう心が一度に開ける様な話。それこそ心から喜んでお礼申して帰られましたというのはですね、昨夜の御理解は私が絵を見に行きました中にある画家の描いたこの人は、気違いに成程に絵を勉強したんですね。
そして精神病院に入院し、退院した直後に描いた絵に「信仰の悲しみ」という画題の絵を描いております。本当にですね私その絵を見ました時に、何かこう力に押されるんです。しかもそれがですね、何か身がぞっとする感じでした、まあいうなら陰惨な絵でしたけれど迫力というか力というか、それは大したものでした、そういう「信仰の悲しみ」というものがです、そういう抽象的な絵ですし抽象的な画題ですから。
何からその画題を求められたか解りませんが「信仰の悲しみ」と言う事を聞いて、何かしらこの絵を見ていろんな思いはありましょうが信仰というものの中にそう言う物があると云う事をですね。皆が感じ恐れられる様な気がします。だから言わん事じゃなかろう、あんなに信心にボう狂うと、こういう悲しい事になるんだと、言った物を感じさせないかと思ったんです。
それを見ながらけれどもやっぱり私、思うんですが確かにそういう「信仰の悲しみ」と言う様な宗教がいや信仰がです。確かに沢山あるという事ですよ、いや金光様の御信心頂いておるから。金光様の御信心は間違いないとは言えない物もあると思ったんです、所がね御祈念さして頂きよりましたら焦点のない信仰と頂きました。目当てのない信仰そしてその御祈念の時、またそれを思い出してから弓を射っているんですね。
そして誰かが的もなにもなしに、いきなり矢を射ちはなして居る様な感じなんですよ、こういう信仰を持ってするなら、矢張り信仰の悲しみという事になるのだろうと思いました。皆さん達だってそうでしょう病気を治して貰わんならんから、この事の難儀を助けて貰わんならんからという初めの間はそんな事から参って来るんですけれども、段々お話を頂いて行く内に、金光様の本当の御信心というものを聞けば聞く程にね。
そういう事が焦点ではなくて、所謂ご利益が焦点でなくて、間違いのない、そこに焦点を置いて日々稽古をさせて頂くと云う事、初めの間は分らなかった、けれど段々稽古をして行く内に、的の中心を動かして頂ける事が出来る様になって行く、と言う所に焦点を置かなければならない、確かにですね。唯ご利益だけが目当ての信心というか、それとも又、何十年とお参りしておってもです。
何とはなしに参らないと気色が悪い、気分が悪かぐらいの事で参りよるならばです、それは丁度信心の稽古に通って来る所と仰るけれど、稽古に通って来るんじゃない、只的なしに弓を射って居る様なもんです。是では信仰の悲しみと同じ事の様に私は思いますね。そういう素晴らしい助かりの道を頂かせて貰える道におりながらです、例えば幾人かの不心得信者がありましてですね。
間違えた伝え方間違えた自分の信心態度と言う物が、金光様の信心とはあげな信心かとあらあんた合楽で総代しとる人じゃなかの、あらあんた合楽の幹部じゃなかのそしてあれが金光様の信心か、あれが合楽の先生が伝えておられる姿かと言う風な物が。もしあるとするならばです、成程行こうと思うてる者でも、行けなくなって来るのじゃなかろうかと思いますね、そういう素晴らしい文化センタ―の場合でもです。
それこそ駐車されん位に沢山の自動車が集まるというのに、本当に助かる、救いが頂ける道と言う物を、ここでは朝晩聞いて頂き、解らして頂いておるのですが、世の中に沢山の救い助けられなければならない難儀な氏子があるので御座いますから、そういう人達のお導き、誘導は実意丁寧に致さねばなりません。しかし阻害になる、邪魔になる様なあり方であってはならないと、心におかなければいけないと思いますね。
何時も私は金光様の御信心を頂いておりますと、私は毎日合楽にお参りさせて頂いておりますという、私を見て下されば合楽の信心はわかりますと、私を見て下されば金光様の御信心が分りますと言う位の信心を、本当に打ち立てて皆さん一人一人が、そういう意味合いにおいての助かりが、頂かなければ駄目だと思いますね、是は昨夜の御理解で御座いますけれど。
どう言う所に焦点をおいたら間違いないか、それは「偉大なる信心」「偉大なる信仰」そして偉大な大みかげを、こうむらせて頂くと言う事なんです。偉大なる信仰とはいよいよ馬鹿に撤する事という御理解でした、具体的に説いて御座いますから順をおって頂けばまた解ります、ははあ今日も一日本気で馬鹿とアホウにならせて頂こうと、それこそ私十何年間言い続けて来た事なんですけれどそこんところを焦点に。
そこで今日もどうぞ「生神金光大神、天地金乃神一心に願え、おかげは和賀心にあり、今月今日でたのめい」今月今日頼まして頂くという事は。どうぞ私の心の中に、和らぎ賀ぶ心、いわゆる和賀心を頂かして下さいと、和賀心そのものが、馬鹿と阿呆だと言う事なんです。偉大な馬鹿とはそういうもんだと、有難い時は誰がなんと云ったってですね、あの人はちょっと馬鹿じゃなかろうか。
あげん皮肉云われ御座るけど腹も立てらっしゃれん、と言う様にこちらの心が和らぎ賀こんでいる時は全然問題じゃないです。それ位の事は問題じゃないんです少々痛い思いする様な事は有難いです、ですから私共は今日一日本当に馬鹿と阿呆にならせて下さいという願いを持たせて頂いて果たして今日一日自分が、利口になる事ばっかりしたのではなかろうか、自分がこげな事では人から付け込まれるそして自分が無い知恵を振り絞って、利口者になろうとしておる様な所はなかろうか。
馬鹿と阿呆になっていかなければならんのに、かえって利口者になる様な事をして、後味の悪い一日が終ってしまう様な事はなかろうか、今日一日をいよいよ偉大なる馬鹿にならして下さい、と言う様なおかげを頂かして頂く時にです、その偉大なる馬鹿がです、どういう利発な、利口な人よりも、おかげを受けておるという、体験を表していける事か出来ると言う事なんです。
私はね、馬鹿になる事は素晴らしい、偉大な事だと思うんです、そして偉大なおかげが受けられる道だと思うんです。だからそこに焦点をおいているんですね、云うなら今日ばかり本気で一つ馬鹿になろう、そこえ向かって一生懸命、信心の稽古をする訳です、今日はあそこん所が馬鹿になれんかった、その証拠に腹が立った、そこんところをです、繰り返し繰り返し稽古させて頂きよるとです。
信心のない前はこの位の事で腹を立てよつたけれども。おかげを頂いて一年後には、この様に腹を立てる所か却って有難うなって来たと、言う物が正確に心の中に頂けて来る様になるのです。正確に解る様に成って来るそれが楽しみそれが有難い、どうでしょうか皆さん、信心させて頂く様になってどれだけ馬鹿になり切る様になったか、それこそ信心のない人よりも先に利口になろうと言う様なです、人を押し退けてでも自分が良か者の様な風でもしたい、様な心が私共の心にまだ沢山有りはしないか。
信心の稽古と言う事では、是だけではありますまいけど、昨夜の御理解から、今朝の御理解にかけて頂きますとです、本気で一つ、そういう間違いのない所に焦点をおいて、信心の的というのをおいて、的を定めての信心を、本当の信心だと思います。そしてそこに偉大なおかげを頂いて御覧なさい、一人一人がそれこそ、信心しなければ馬鹿らしか、我も我もと、合楽に合楽にと云うて通うて来るでしょう。
そこにその、当時日本一とも云われた、大阪の玉水教会の、湯川先生という方がおられました。大変御徳を受けられた先生でした。今でもそうですけどね、お広前が三百畳位ありますでしょうね、私大阪え参ります度にお引き寄せ頂くんですけどもね、それが夜中に参っても一杯、大阪は商売人の街ですからね、朝から晩まで、丁度御本部の大祭の様に、お参りがあっておりました。
そら本当に大変な事なんです。金光様ひとつ知らぬ者はあるが、玉水さんと云ったら誰もが知っています、金光様知らんでも合楽さんいうたら、誰でも知っている位の、おかげを頂かないかんと思うのですね。本当に合楽ちゃ金光様、金光様ちゃ合楽と言われる位のです、おかげを打ち立てていかなならんと、近いうち合楽という、名称はなくなるそうです、けれど合楽教会というものは無くならんのです名称ですから。
合楽という地名は、合楽教会の為にあった様な感じがしますね、そしてある時に湯川先生にですね、「大変なお参ですね、大変な御用で御座いますね」と申し上げた時に湯川先生が仰ったそうです。「大阪、大阪駅を見てみよ」と仰ったそうです、そら「ほとんど旅行しよるというだけでも、あれだけの人間がごったがえしておるじゃないか」と、「ここは心が助かる所ぞ、難儀な問題が一つ一つおかげ頂いていける所ぞ」そして「これ位は実は少ない、神様に私はお詫びばかりしておる」と仰ったそうです。
そんなら私共本当にどれ程神様にお詫びしなければならんか分かりません、是だけ言うならば立派な稽古場を頂きながらです、朝の御祈念にこのお広前が一杯でそれこそ足の踏み場もない位、教祖の教えを求めて集まって来る様なおかげをです。頂かせて貰って初めて神様に対する所のお礼と言う様な事がいえるのではなかろうかそこでもう一度、昨日の朝の御理解を頂いてです。
自分が本当におかげを受けなければ、偉大なおかげを受けさせて頂いて、そのおかげを受けた事を人に実意丁寧に伝えて行くという、そこから神様のお礼、いわゆる本当の真の信心と申しますかねいわゆる「信仰の悲しみ」ではない「信仰の歓び」というのは、ああいうものか、私共の生活の中に人間私の中に人間私共の家庭の中に信心の歓びというものが一杯溢れて来る様な、おかげを頂かなければならんと、こう言う風に思うんですね。
どうぞ。